ロジャーズ(Carl Rogers)の生い立ちと理論背景
はじめに
僕は、大学院の修士課程における修士論文に『来談者中心療法』の理論を用いて、青年期の時間的展望に関する研究をした。その際、ロジャーズの書籍に触れ、その理論背景を辿った。今回は、その経験からロジャーズの生い立ちと理論背景について、まとめることとする。
ロジャーズの生い立ち
ロジャーズは、1902年にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴのオークパークという場所に生を受けた。ロジャーズは父のウォルター(建築工学の博士で実業家)、母のジュリア(主婦)の間に生まれた白人男性である。
ロジャーズの両親はプロテスタントであり、ロジャーズはキリスト教の原理主義的な教育を受けて育つ。飲酒やギャンブルなどは勿論のこと、遊びや読書についても制限があったとされる。ロジャーズは、幼い頃から厳しく勤勉さを求められ、小学生になる頃には凄まじい数の本を読んでいた。
小学校では、入学して早々に飛び級制度によって2年生に進級した。ロジャーズは優秀で、どの教員からも称賛されたが、両親は学業成績にそれほどの関心はなく、あまり褒められた経験はなかった。
ロジャーズが中学生になっても、両親は厳しく教えを守らせた。この影響が強く、学校では孤立し、友達は少なかったとされる。この一方で、ロジャーズは自由と友達に対する憧れを持った。
この頃、ロジャーズの父親はシカゴ西部に農園を購入し、ロジャーズ一家は転居する。転居した先は田舎の豪邸で、両親が子どもたちを誘惑の多い都市部から離れさせるためだったという。
ロジャーズは、自然に触れる楽しさ、大きな農園に興味を示し、農業の世界へと踏み込んでいく。父親の農業を手伝いながら、農業に関する書籍を読み、勉強をした。
高校生になったロジャーズは、学業成績はよかったものの、2度の転校と遠距離通学のために友達は少なかった。
高校を卒業したあと、ウィスコンシン大学の農学部に入学した。これによりロジャーズは、ようやく両親の強い束縛から解放された。ロジャーズは大学生になって数名の異性と交際をする。ここで、後に妻となるヘレン・エリオットと交際する。
大学では牧師を目指し、勉学に力を注いだ。そのかいあって、世界キリスト教学生会議のアメリカ代表に選出され、ウィスコンシン大学の成績最優秀者となる。
しかし、会議から帰国したロジャーズは十二指腸潰瘍を患い、大学を休学する。この際に大学の通信講座で心理学入門を受講する。これが心理学との出会いとなる。
復学したのち、農学部から歴史学部に転部する。卒業論文は「宗教の権威に関するマルティン・ルターの思想の発展」であった。
大学を卒業した年、22歳のときにヘレンと結婚した。同じ年、ニューヨークにあるユニオン神学校の大学院に進学し、キリスト教プロテスタント神学を学ぶ。またも成績優秀者に選ばれる。
大学院に通いながら、実習で牧師の職を経験し、心理学についても講義を受けるようになった。
この際、ロジャーズは、これまで宗教に縛られていた人生を振り返り、心理学によって自分の人生を顧みようと考えた。
その後、ロジャーズはユニオン神学校大学院を中退し、コロンビア大学大学院の教育学研究科に転学する。専攻は臨床心理学と教育心理学であった。
2人の間に長男が誕生するとWatson,J.B.の行動主義心理学に基づいて教育を施すようになる。その後、ニューヨーク市内の児童相談施設でインターンを受ける。この児童相談施設はフロイトの精神分析を軸にしていたが、ロジャーズはフロイトの理論に疑問を持つことになる。
ロジャーズは、施設が講習会で招いたことにより、アドラーとも出会っている。ロジャーズはアドラーの理論に対しても疑問を持った。ロジャーズは、自己の考えに対する固執が強く、他の理論に対して否定的な立場をとった。
インターン終了後、ロジャーズはロチェスター児童虐待防止協会で勤務することになる。ここでロジャーズは非行少年や被虐待児のカウンセリングを12年にわたり行っている。
ロジャーズは既存の理論をもとにカウンセリングを行っていたが、キャリアを積むことで既存の理論の限界を感じ、自身の理論を考え始めていた。協会でのカウンセリングの対象が子どもであったこと、この経験が後の来談者中心療法の大枠である自己成長の概念に繋がっていく。
ロジャーズはこの12年の間に講演会でオットー・ランクに出会っている。ランクはフェレンツィの『共感的理解』を強く推奨しており、ロジャーズも講演を聞いたあとに『共感的理解』に着目しだした。
ロジャーズは29歳のときコロンビア大学大学院で哲学博士の学位を取得している。哲学を専攻していたといっても博士論文は『児童の人格適応の測定』であり、今でいえば心理学の領域である。
その後、ある子どもと保護者のカウンセリングにおいて、ロジャーズは精神分析療法を施すが、カウンセリング終了後に子どもの問題行動が再発する事例が続いた。これに困ったロジャーズは、両者の食い違う話をただ聴くことに集中した。思いのほか、この事例は徐々に改善されていった。ロジャーズはここでランクの『共感的理解』の有効性を計り知ることになった。
ここでロジャーズは初めて自身の書籍である『問題児の治療(1966)』を出版する。この書籍には、カウンセラーに必要な資質が記載されており、『共感的理解』『無条件の肯定的関心』『自己一致(純粋性)』が心理療法家の話題を呼び、有名となった。
ロジャーズは、38歳になる頃、オハイオ州立大学の教授になった。ロジャーズの講義は学生から人気を集めた。ロジャーズは青年期の学生たちが自己成長の力を十分に備えていることを考慮していたのか、優しく「やってみなさい」という指導が多かったという。
この頃、ロジャーズと指導していた学生たちは、カウンセリングの内容を録音することを始めた。しかし、これには賛否が分かれた。
ロジャーズはこの批判に対して、カウンセラーの面接報告は一定の解釈が混じっており、正しいものではないと批判した。つまり、報告には解釈を織り混ぜずにクライエントが語る事実やその瞬間の振る舞いなどにも意味があると主張したのである。
次にロジャーズは『カウンセリングと心理療法(1942)』でカウンセリングと心理療法において指示や忠告のようなことはするべきではないとして、非指示的カウンセリングを主張した。
ここでロジャーズの来談者中心療法の大枠が完成したと思われる。しかしながら、ロジャーズの教え子でさえも、ロジャーズが考慮していた真意まで理解することができず、反射による非指示的カウンセリングを「オウム返しをしているだけ」と揶揄する者が多く現れた。
ロジャーズは『クライエント中心療法(1951)』を出版するが、そこでも真意が伝わりきらず、批判の対象となった。
当時の来談者中心療法は、これまでの医学的姿勢にあったカウンセリングの療法から逸脱した方法論であったため、医学会からの批判が多く、心理学者からも流れのままに批判を浴びる結果となった。
一方で、ロジャーズの指導は人気があり、教え子として活躍し始めたのがジェンドリンである。教え子といっても、シカゴ大学のカウンセリングセンターにおいてロジャーズが上司、ジェンドリンが部下(同僚)であった。
1957年、ロジャーズはウィスコンシン大学に移り、心理学と精神医学の教授となった。同年『セラピーによるパーソナリティ変化に必要かつ十分な条件』を発表した。
この考えは、多くの心理学者の反響を呼んだ。一定数の批判があったものの、これらの必要十分条件を満たしている状態のセラピーにおいては、有効性が高いと示唆する者が多かったのである。
1963年、ロジャーズはウィスコンシン大学を辞職した。これがロジャーズの現役引退とする者も多い。その後、ロジャーズはベーシック・エンカウンター・グループの実践に力を入れる。来談者中心療法の発展は、教え子たちに託された。
ロジャーズは引退をしてから、飲酒の量が増え、年の離れた若い女性と浮気をするなど、堕落していく。その間もロジャーズは講演を依頼され、その講演も大盛況になるなど、活躍をしている。
1979年、妻のヘレンが他界してからは、霊的現象やスピリチュアルの世界に没頭していった。これらの変貌を知った臨床家たちは当惑しながらも、これまでの功績を讃え、ロジャーズを支えた。
1981年、ロジャーズが80歳を迎えた頃、健康状態が落ち着いた。誕生日講演では、余生を国際平和のために費やすことを宣言し、その後の1年間、様々な平和プロジェクトを実施した。
このとき、アメリカ心理学会のアンケート調査で『最も影響力のある10人の心理療法家』の1位に選ばれている。その後、ロジャーズは日本に3度も訪れている。その度、日本ではロジャーズの影響を受ける心理療法家が増えていった。
理論背景
ロジャーズは、幼い頃に両親によって厳しい縛りのある生活を経験している。ロジャーズは、この経験と少年非行の臨床を経験したことで、自己成長を軸とした来談者中心療法を展開することとなった。
来談者中心療法は、当時の流行りであった精神分析や行動療法の流れを受けて、批判されることが多かったが、近くにいた研究者たち臨床家たちの評価は凄く高かった。
事実、アメリカ以外の国では、ロジャーズの影響を受けたという臨床家が多く、日本では精神分析と認知行動療法に並んで、知っておくべき必修の療法として評価されている。
ロジャーズの来談者中心療法は、自己受容、自己成長、自己概念と経験の不一致、理想自己と現実自己の不一致といった概念が基盤となっている。
自己受容は来談者中心療法のゴールとされており、「自分のありのままを受け入れようとする肯定的な態度」であると解釈される。
つまり、無理に自分を変えたり責めたりするのではなく、自分の否定的な側面においても、ありのまま受け入れ、これでいいと諦めたり妥協するのではなく、あくまで肯定的な未来へのイメージを持つことができるようになること目標とされるのである。
自己概念と経験の不一致とは、自己概念(自分に対するイメージ)に対して嫌悪的な経験をすることで不一致の状態となり、それが不適応状態の要因となっているということである。
理想自己と現実自己の不一致とは、「自己概念と経験の不一致」から発展した理論で、理想自己(こうありたい自己像)が現実自己(現在の自分)と不一致の状態にあることが不適応状態の要因となっているとする理論である。
理想自己と現実自己の不一致のついては、理想自己があることによって、目標に向かって成長することができるのではないかとする自己成長の側面もある。
一方で、完璧主義によるうつ病や強迫症の患者は、理想自己を過度に高く設定することが報告されており、この場合の理想自己と現実自己の不一致が大きいことも、この理論では考慮される。
つまり、ロジャーズは臨床家として、理論を後者(臨床群)に対して適用したわけであるが、臨床家以外の心理学者は、自己成長をより強調し、この理論を引用する場合もある。これも来談者中心療法の誤解に繋がっていると考えられる。
最後に
僕は、自身を教育と児童福祉の領域の公認心理師であると思っている。教員をしていたとき、生徒の深い悩みを聴く場面が何度もあった。
僕は、大学院で来談者中心療法を軸に研究をしていたこともあり、教員時代は、専ら来談者中心療法を意識していた。教育現場における児童期と青年期の子どもたちは、自己に対する意識が強く、理想自己もしくは他者との比較による劣等感を抱いている。
また、あらゆることに対する経験値の不足から不安が強く、特に人間関係や将来に対する不安がある。傾聴と認知行動療法を用いて、不安の緩和や対応方法を伝える機会も多かった。
不登校や自傷、非行などの生徒指導案件においては勿論、それらの予防的観点としてもカウンセリングマインドは役に立ったと思う。
僕は教員であったため多重関係に至らぬよう考慮し、部屋で面接を行う機会は殆どなかったが、体育の授業を見学する子や孤立している子などを見つけては、隣に座り世間話をし、溢れてくる悩みを傾聴することを繰り返した。
その中で、家庭の問題を涙しながら話す子、性格を変えたいんだと自分と向き合っている子、多くの生徒と出会い、臨床家になることを決意した。同時に、学校臨床における来談者中心療法の相性の良さを感じた。