ボウルビィの生い立ちと理論背景

2021年3月22日

ボウルビィの生い立ち

■3つの論文を読んで、書かせていただきましたが、年代や考察など一致しない部分もあるため、その点を留意しながら読んでいただければと思います。また、参考引用させていただいた論文の著者様については、真意と異なる記載があるかもしれません。申し訳ありません。

ジョン・ボウルビィ(John Bowlby)は、1907年2月26日にイギリスで生まれた。父親のアンソニー・ボウルビィは外科医であった。1914年(7歳)第一次世界大戦の最中、寄宿性の学校に入学する。1916年(9歳)にはダートマス兵学校に入学する。1925年(18歳)ではケンブリッジ大学に入学、医学生となる。

1928年(21歳)に父親が他界する。父親の影響を受けていたボウルビィは、父親の勧めでケンブリッジ大学で心理学を学んでいた。1933年(26歳)に医師資格を取得し、モーズレイ病院で精神医学を学ぶ。

1936年(29歳)では、ロンドンの児童相談施設で勤務しながら、メラニー・クライン(Melanie Klein)がスーパーヴァイザーとなり、児童精神医学を深く学ぶ。ボウルビィは学生時代からメラニー・クラインの著書を読んでいたこともあり、弟子入りを強く志願していた。

1937年(30歳)では、精神分析家(国際精神分析協会が認定する資格)を取得する。この頃、ボウルビィはアンナ・フロイトの影響を強く受けており、後の孤児に対する視点もまたこの期間の学びが影響していると考えられる。また、ボウルビィは多動傾向のある児童を、その母親の情緒障害が影響していると考えたが、クラインにより否定された。その数カ月後、母親が精神病を発病し、治療が打ち切られた。この経験からボウルビィはクラインの考えに否定的になっている。

1940年(33歳)では、陸軍所属の精神科医として勤務する。この第二次世界大戦が始まった頃、孤児の増加や戦争の痛ましさを目撃する者の精神的な問題が増えたのをきっかけに、ボウルビィはタビストック・クリニック(ロンドンの力動的治療を専門とする医療機関)において、児童精神医学の部門を立ち上げることとなる。この頃、ボウルビィは『神経症と神経症的性格の形成における環境の影響』を発表する。これまでクライン派の精神分析家たちは、神経症の原因は生得的な要因を重視していたため、この発表はこれを指摘する形となった。

1944年(37歳)にボウルビィは『44人の盗癖児:その性格と家庭生活』を発表する。これは、子どもの盗癖の要因を後天的に身についた人格と、その人格を形成する家庭生活に着目されている。ボウルビィの指摘は、これまでの遺伝要因と環境要因の対立論争そのものを批判するもので、遺伝と環境は単純な二次元構造ではなく「人格」を含めた三項による影響があるした。(しかしながら、ボウルビィはこの指摘を証明するために多くの時間を費やし、結果的には環境決定論者のように捉えられている。)

■盗癖児とは今でいうクレプトマニア(窃盗症)を思い浮かばせるものではあるが、実際には少し異なる部分があり、愛情欲求や承認欲求を満たすための窃盗行為であるとも考えられる。

1950年頃、戦争の終焉を受けて、孤児が増えたイタリアにおいて、孤児院で引き取られた孤児たちの心身の発達に遅れがあるとも指摘を受け、ボウルビィはその原因を解明するべく研究に打ち込むことになる。ボウルビィは1950年にWHOの臨時職員に任命され、ヨーロッパとアメリカにおける調査研究に参加し、孤児の精神衛生に関する報告書を作成している。

1951年の『母性的配慮と精神衛生』では、家庭環境が子どもの発達と人格形成に及ぼす影響をまとめたメタ研究を行っている。全159本の文献から国籍や文化が異なっても幼児の発達に関する基本的な原理に違いはないことを示唆している。この基本原理として、ボウルビィは「Maternal deprivation(母性的養育の剥離)」を挙げている。母性的養育の剥離とは、幼児期の子どもが愛情を学び、幸福感を満たす対象としての母親との関係を欠いている状態を指している。

1958年の『母子関係の理論』では、幼児と母親の結びつきの本質について考察し、母親と子どもの間には生物学的な愛着を求める性質があると示唆した。つまり、幼児が母親に対してみせる愛着行動は、生まれながらの本能であるという結論に達したわけである。ここにきて、ボウルビィは改めて遺伝学を支持し、遺伝と環境がその後の人格形成に大きな相互作用を成すことを指摘したのである。

そして、1969年に『愛着行動』、1973年に『分離不安』、1980年に『愛情喪失』を発表した。

ボウルビィの愛着理論の背景

1945年。スピッツ(Spitiz)は、生後1年間に施設に収容された子を対象に調査し、長期収容が後の精神障害のリスクを高めることを示唆した。この『ホスピタリズム』という論文が発表されたことで、ボウルビィの理論が強固なものとなっていくのである。

ボウルビィは、『母性的配慮と精神衛生(1951年)』のなかで乳幼児期における母親の役割としての配慮的な関わりが、その後の人格形成に大きな影響を与えると示唆した。そして、この母性的養育が戦争による孤児問題などによって、妨げられてしまうことを「母性的養育の剥離;マターナル・デプリベーション(Maternal deprivation)」として、体系化しようと試みたのである。

アンナ・フロイトは「時に母子分離をしたほうが良いこともある」とも話しており、必ずしも分離という事実が重要ではないことを指摘している。つまり、事実としての分離を重視するのではなく、その分離の背景や状況等を捉える必要があると考えていたのであった。

このあと1969年に刊行された『愛着と喪失』の三部作のなかで「愛着理論(Attachment theory)」が展開される。この理論の批判としては、ボウルビィはあくまで「母親」の持つ役割を重視したために、当時の女性ばかりが育児を行うべきではないとする視点から批判されている。アンナ・フロイトが指摘したのは「孤児院において両親の不在が問題」であって、母親の役割に限定したものはなかったが、ボウルビィは生態学的な母親と子の関係に、愛着理論を結びつけたのだった。

ボウルビィは、ローレンツの書物に触れるなど、行動生物学の原理を取り入れようとしていた。その結果、これまでのアンナ・フロイトとの精神分析学としての考えから分岐する形になったのかもしれない。

参考引用文献

  • 下司 晶(2006)J・ボウルビィにおける愛着理論の誕生ー自然科学と精神分析ー 近代教育フォーラム, 15 (0) ,203-219.
  • Bowlby,J.(1979)The Bowlby-Ainsworth attachment theory , Behavioral and Brain Sciences. 637-638.
  • 中野明徳(2017)ジョン・ボウルビィの愛着理論ーその生成過程と現代的意義ー 別府大学大学院紀要,19,49-67.