Fラン体育大学から国立教育系大学院(教育心理学専攻)に合格した話【ゆるく語る】
こんにちは。中津です。
今回は、ただのエピソード話です。勉強にならないと思いますが、読んでみてください。
大学受験の失敗
僕は、もともと勉強が得意ではありませんでした。高校は県内の普通の進学校です。中学校では、そこそこ勉強ができたので、何とか合格できました。でも、高校1年生の時に勉強についていけなくなって、赤点ばかりで、勉強を諦めた時もありました。それでも学校の先生になりたいという目標があったので、高校2年生から再起して、勉強しました。
地元の国立大学に行きたくて、勉強しましたが、模試ではE判定(普通に受からない)ばかりでした。当時はセンター試験だったので、センター試験の点数を利用して、私立の高校を受けることも考えられたので、センター試験を受けました。勿論、結果はボロボロでした。
いつも国語だけは得意で、模試では現代文は満点ばかりでした。国語だけでもセンター利用で使えたらと思っていたのですが、まさかの国語も点が取れずで、見事に大学受験は失敗に終わりました。
私立の大学もいくつか受けて、模試でA判定のところがあったので、そこに受かればと思っていたのですが、これも落ちました。本当の滑り止めに受かって、そこに入学しました。当時は、辛かったです。
多忙な大学生活
大学では、受験失敗の悔しさから「何としてでも教員になる」と決めて、1年生のうちから活動的に動きました。保健体育の先生になりたかったので、バイトはスポーツクラブ、2年生ではバレー部とボランティアサークルの立ち上げに関わり、プレゼン大会に出たりもしました。
平日は、講義→部活動→勉強。土日は、ボランティア→バイト→勉強。この休みのない生活を4年間続けました。ここで、色々と考えました。教員採用試験を一発で突破するのは、凄く難しいと聞いていたので、落ちたら大学院で勉強しようと決めました。行きたかったのは、筑波大学大学院です。体育系と言えば筑波大学は有名です。専門の勉強と英語の勉強をひたすらしました。
転機と地獄
教育実習で高校にお世話になりました。そこで、多くの生徒から悩みを相談されます。勉強、進路、恋愛、家庭、友人関係です。中にはドラマになるような深刻なものもありました。ここで、僕は「カウンセリングができる先生にならなければ!」と思うわけです。
そして、大学院受験まで残り5ヶ月。壊れるまで勉強しました。途中、教員採用試験を受けて、見事に落ちました。でも、何も悔しさはなくて、大学院受験にすぐに切り替えられました。たぶん教員採用試験よりも重要だと思っていました。
1日14時間は勉強すると決め、朝4時から勉強を始めて、集中力が切れるタイミングで大学の図書館に移動して、心理の勉強と英字新聞の要約を繰り返しました。その結果、残り1ヶ月の時点で壊れました。
病院には行ってませんが、これがうつ病かと思いました。勝手に涙が出てきて、○にたいと思うばかりの毎日が続きます。体重も1ヶ月で8キロくらい減りました。
大学院受験の当日です。筆を持つ手は震えて、いつも丁寧に書いている字が、これまでにないくらい汚くなり、自分の字ではないようでした。筆記試験が終わり、手応えはありました。でも、心は穏やかではありません。そこで同じ歳の受験者(後の院生友達)話しかけてくれて、和んだのを憶えています。面接試験では、研究計画書を持参し、大学院でしたい研究のことを話します。それに対して、大学教員8人が質問するというものでした。うつ病の症状だったと思いますが、集中力がなく、話が全く理解できず、半ば「もうダメだ」と思いながら、入学したい旨を熱意だけで伝えました。もともと体育系の学生が教育心理学の大学院を受けることすら無謀だったのだと思いました。
合格と展望
大学院受験が終わって、電車に乗ったとき、「ああ、終わった」とネクタイを外し、力尽きたように人の少ない車両で嘆いたのを憶えています。地元大学院の受験だったので、実家に帰りました。丸1日寝たと思います。もう大学の講義もなく、卒論も終わっていたので、1週間くらい実家にいて、何もせずに寝ていました。家族は僕の痩せ方を見て、驚きました。母は察したようで、しっかり休んでと言っていました。
一人暮らしのアパート帰って、2月の半ば、教育委員会から講師の電話がかかってきました。講師はとても良い話でした。でも、まだ大学院の結果が出ていなかったので、受かったら大学院に行きたいと話をして、電話を切りました。教育委員会の担当の方は、優しく対応してくれたと思います。枠がなくなるかもしれないけど、合格通知がきたら、連絡をくださいと言ってくれました。
その3日後くらいです。ネットで合格発表がありました。躊躇しながらも見てみると、合格していました。自分の目を疑いながら、何度も確認しました。すぐに教育委員会に電話をかけて、講師を辞退させていただくことを伝えました。
それが、2月16日だったと思います。卒業式まで約1ヶ月、どう過ごしたか、もう憶えていません。親が来てくれて、アパートの撤去、引越しをしたと思います。それくらいです。
大学院生の生活
本来、所属する研究室を決めるために研究室訪問などを行うはずなのですが、僕は体育大学からの進学なので、細かい領域の違いや大学教員の専門がわからなかったので、大学が気を使ってくれて、僕の研究計画書に合うだろう先生が、呼んでくださりました。
たまたま大学のバレー部に高校時代の後輩がいたので、部活動におじゃまして、そのまま案内してもらいました。その先生は、バレー専門であることを知って、明るく接してくださりました。娘さんがバレーをしているそうで、話が合ったのです。そして、研究室のことを教えてもらい、僕のやりやいことと一致したので、そのままお世話になることになりました。この先生が僕の師匠です。
なんと筑波大学のご出身で、高校教員の経験もあるとか。導かれたような偶然でした。僕は、院生のゼミと学部生のゼミ、どちらにも出席することになり、基礎を学部生教えてもらいながら、院生レベルの勉強もすることになります。もう毎日、頭から煙が出ていました。院生の講義レベルが高くて、専門用語ばかりで、予習と復習と講義とレポートと、勉強づくしです。
1年目は、6時半に実家を出て、原付で駅まで、電車で30分、歩いて15分で、8時くらいに大学に到着し、帰りは23時半に家に着く毎日でした。
2年目は、論文の読み方も分かってきて、研究に没頭しました。なかなかテーマが決まらなくて、苦しかったです。テーマが決まると、勢いで一気に進みました。講義の数は減ったので、実家の近くの適応指導教室でボランティアを始めました。これも師匠に紹介していただきました。適応指導教室でのボランティアの経験は、今でも凄く活きていて、僕がフリースクールを開業したのも、この経験が背景にあります。
1年目も2年目も、目まぐるしく毎日が過ぎていきました。夏休みは、少し余裕ができ、家で研究を進めたりもしました。ただ、僕のうつは完治していなくて、まだ辛さがありました。研究を進めるのと平行して、うつ病や自分の特性についても、論文や書籍で勉強しました。散歩して、自分を見つめたり、アイデアを探ったりしました。日に当たり、自分を見つめ、適度運動にもなる。これが良かったのだと思います。大学院の終わり頃には、かなり良くなりました。
こうして自分を見つめたことで、色んな世界が見えた気がします。この経験や大学院で学んだことが、特別支援学校でも高校でも凄く活きたと思っています。そして、今後もフリースクールや児童福祉で、この経験と知識を活かしていこうと思います。
修士課程の2年間で、基礎から専門まで6年分の勉強をした気がします。でも、この大変さは、不思議と辛さを感じさせませんでした。子どもとの出会いもあり、自分の力試しにもなり、成長もできました。たった2年間でしたが、非常に濃い時間でした。
最後に
専門が違う別の領域に移るということは、こんなに大変なのかと思いました。でも、自分の理想は、周りの方に理解されて、支持されました。これは、嬉しいことです。
師匠や大学院の先生方も、優しく丁寧に根気強く、素人の僕に教えてくださったわけです。学部生だったゼミ生の子たちや院生仲間も、今は心理職や教員で活躍しているそうです。
現職先生がゼミの先輩に2人いて、院生の同期に1人いました。何も分からない僕に、目線を合わせて一緒に学んでくれて、学校のことや教員のことまで、教えてくれました。たぶん、僕が教員になることを応援してくれたのだと思います。
結果として、僕は教員を退いてしまいました。応援してくれた方々に申し訳ない気持ちがあります。でも、僕は教育には関わり続けたいと思っています。三重県の教育、子どもたちに貢献していきたいと思います。教員の方を陰ながらサポートできたらと思います。
さて、長くなりましたが、今回はここまでです。最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。